Colunas do Sr.Hiroyuki Kondo

    【筆者プロフィール】 近藤 博之(Kondo Hiroyuki) ・1956  早稲田大学政治経済学部卒業 ・1956  ブラジル移住のため渡伯 ・1957  サンパウロで独立自営(健康産業) ・1980  妻の死去により廃業、ラーモス移住地へ入植 ・1985  日本企業勤務のため来日 ・2000  同退職・離日 ・2001  サンパウロ海岸山脈農地の管理に従事 孫の故郷・ラーモス移住地の活性化に尽力、現在に到る <趣意書に代えて> 私がブラジルの日系移住地に日本の「水墨画展示場」の設立を考えた理由 私は、ブラジルに移住しまして今年で56年の歳月を経過してしまいました。56年前、横浜を出港する船を見送って下さった多くの人々の中で早稲田大学教授、大隈重信候の愛弟子と自称された西野入徳先生が、「近藤君、ぜひブラジルに行き、新しい日本を作ってくれ」という言葉が昨日のごとく思い出される今日この頃です。私も今までの移民人生を振り返りますと、妻や子を先立たせたり、仕事にも失敗するなど、多くの挫折に会いました。しかしながら今日まで生きながらえ、81歳となった今も元気でこのブラジルの地に生きていることは、幾多の困難を乗り越えた移住先輩の方々のお陰と考えており、ここに私は、これからの余生を、先ほど記しました西野入先生の言葉を「日本の心をこのブラジルの地に残しなさい」というように解釈し、それを実行に移すことが皆様のご恩に報いることと思い始めましたところ、私の考えてもみなかったことが次々と私の身に起こりはじめました。 第一に、私が結婚しました時、私の親族の中で 水墨画の画家、近藤浩一路(岡倉天心先生、横山大観先生の志をついで近代日本の水墨画を描き続けた画伯)から松林越しに描かれた富士の山の水墨画が私たちに贈られたのですが、その絵が私の手元に蘇りました。私がどうしたものかと考えましたところ、私が昔関係しておりましたサンタ・カタリーナ州、ラーモス移住地に日本政府の肝煎りで観光用の八角堂という建物が建てられましたので、その内部の壁を飾るようにその絵を寄贈しましたところ、同地のブラジル人、日系人から大変喜ばれました。そこで私は、この水墨画という日本独特の絵をこの地に飾り、それを通じてその絵から発する「日本の心」をこのブラジルの地に具現しようと考えたわけです。 そしてたまたま今回訪日することができましたので、その水墨画の展示について、浩一路画伯の息子さん暾(アサヒ)様(88歳)にご相談しましたところ、ご快諾を得ましたし、また山梨県立美術館及び画伯の故郷山梨県南部町にあります近藤浩一路記念南部町立美術館(両美術館とも同画伯の作品を所蔵されている)の方々からもご協力のお約束が取れましたのでここに私は、正式にブラジル国サンタ・カタリーナ州のラーモス日系移住地に近藤浩一路画伯の展示場を作りますことを皆様にご報告申し上げる次第です。 これから次々にその経過をご報告申し上げますが、今後皆様の絶大なご協力とご支援を心からお願い申し上げる次第です。ありがとうございました。 2012年4月11日夜記す。日本にて。近藤博之

Noticias em jornais e revistas

◆  16ª Sakura Matsuri ◆  竹の有効利用開発を(サンパウロ新聞 2012年6月1日) ◆  50周年に向け工事始動へ 14年まで茶室、屋根など (ニッケイ新聞 2012年3月)

Viagens a Ramos do Prof.Yasuhiro Maruyama

    【著者 プロフィール】 丸山 康則 (まるやま・やすのり ) 昭和3年(1928)、長野県生まれ。29年、京都大学文学部(心理学専攻)卒業。34年、京都大学大学院博士課程単位取得退学。日本国有鉄道労働科学研究所次長、横浜国立大学経営学部教授、麗澤大学国際経済学部教授・学部長、近畿医療福祉大学特任教授、日本交通心理士会会長など歴任。現在、麗澤大学名誉教授。文学博士。 著書に、『ジャポネース・ガランチードー希望のブラジル、日本の未来』モラロジー研究所2010、『ブラジル百年にみる日本人の力』同2008、『職場開発入門―生きがいの探求』交通文化協会1970、『旅の落書帖』日本生産性本部1974、『産業における組織と人間』(編著)朝倉書店1976、『事故予防の行動科学』(編著)福村出版1988、『明日の安全への道しるべ』交通安全出版1989、『いきいき安全学』中央労働災害防止協会1990、『ヒューマンエラーの心理学』(共編著)麗澤大学出版会2001、『ヒューマンエラーの科学』同2004、『事例で学ぶヒューマンエラー』同2006等がある。    ブラジル日系移民シリーズ     【著者ご紹介】 丸山先生に初めてお会いしたのは、2012年2月でしたが、ご高齢(84歳)にも拘わらず、ブラジルの日系移民について熱く語る眼差しは、少年のように輝き、移民の偉業を我がことのように誇らしく、尊敬と感動の念を強く抱いておられることがストレートに伝わって来て非常に印象的でした。 ラーモス村と関わりを持つに到った私たちの意図を知るや、村と親交の深い先生は、さっそく”良き日本の心“が息づく村の話を聞かせて下さいました。青少年の修養の場となっている剣道場「文武館」、長崎市から贈られた「平和の鐘」記念公園、当地で育つニンニクの品種の発見、「ラーモス移住地40年の歩み」という村の歴史の本、村誕生の経緯などエピソードを交え、尽力された移民一人一人の名を挙げながら一気に話されました。思わず感銘を覚えた私は、これらの話をできるだけ多くの日本人に知って欲しい、また知らせるべきと思い、先生のご了解のもと著書「ブラジル日系移民シリーズ」(注)の中からラーモス村に関する部分を抜粋、私たちのホームページ上でご紹介させていただく運びとなりました。 丸山先生は、初めてのブラジル訪問(2005年)以来、移民百周年(2008年)を挟み、しばしば渡伯して日系移民への聞き取りを重ね、文献に当たり、歴史を閲し、前記シリーズ、日系移民“感動の物語”を著し、移民の足跡を明らかにされました。「世界的に見ても、ブラジルの日本人ほど現地と溶け合い、尊敬を受け、日本人もまたブラジルに感謝しているという成功事例は少ない」と指摘、日系人がブラジル社会で「ジャポネース・ガランチード(日本人は信頼できる)」と称されるに到ったことを讃え、同時に今後の日系社会のあり方や在日ブラジル人(デカセギ)問題等についても見識を披瀝されています。移民百年の節目を経た今日、交通心理学等がご専門という異色なキャリアを有する先生が、歴史の必然のように現れ、斬新な目とフィールドワークによって“ブラジル移民の何たるか”を初めて体系的に世に示したと言えるのではないかと思います。これによって想像を絶する日系移民の労苦の幾分かは報われたことでしょう。また同時に今のわれわれに「日本人の誇りと美徳」を強く思い起こさせるものです。 著書の中で、先生は、民族学博物館初代館長の故梅棹忠夫氏が、サンパウロで開催されたブラジル移住70周年記念行事(1976.6.18)の基調講演で「移住者は新世界の文明形成の参加者である」、「日系人社会は日本との文化的連帯を維持することによって、かえって現地社会への貢献の度をますことになる」と語ったことを記されています。前者はその言葉通りに日本移民が新世界ブラジルで新文明形成に貢献したと言えるでしょうが、後者の「文化的連帯の維持」のためには、今後日系人社会と日本相互の一層の協力・努力が必要と思われます。私たちが、ラーモス村と連携する意義はここにあるとも考えます。 (注)「ブラジル日系移民シリーズ」 ①「ブラジル百年にみる日本人の力(2008年、モラロジー研究所)」、②「ジャポネース・ガランチード-希望のブラジル、日本の未来(日本図書館協会選定図書、2010年、同)」、③「ブラジルに流れる”日本人の心の大河”(2011年、同)」 ホームページ上でご紹介させていただく先生の著書と抜粋部分は、「ジャポネース・ガランチード」の中の『セルソ・ラーモス村に剣道場を作った尾中弘孝さん』と「ブラジルに流れる“日本人の心の大河”」の中の『「剣道修行のラーモス村』です。 (2012.3.10 TRABRAS理事長 加藤仁紀) ◆セルソ・ラーモス村に剣道場を作った尾中弘孝さん◆ (丸山康則著「ジャポネース・ガランチード」より転載) セルソ・ラーモスは人の名前です 2009年が明けて最初の旅は、長井邦夫さんの勧めでセルソ・ラーモス村に行くことにしました。 1月4日の夜7時30分、サンパウロのバスセンターからの出発です。バスタセンターは、この時期は学校が休みですから、家族旅行の人たちでいっぱいでした。何回か乗って、なじみになった夜行バスです。家内と長井さんと3人で乗り込みました。途中、食事休憩を挟み、夜が明けるまで走り続けてクリチバーノスという都市に到着、セルソ・ラーモス村は間近です。 セルソ・ラーモス村、短くラーモス村と呼ばれるこの村は、サンタ・カタリーナ(SC)州にあります。ブラジルの一番南の州がリオ・グランデ・ド・スール州で、サンタ・カタリーナ州は、その北側にあります。サンタ・カタリーナ州の北にはパラナ州があって、そのまた北に日系人が最も多く住んでいるサンパウロ州があります。 セルソ・ラーモスとは、以前、サンタ・カタリーナ州の知事だった人の名前です。「どうして知事の名前が?」「知事が生まれたところ?」などと疑問を持たれるでしょうが、そのわけはサンタ・カタリーナ州知事の時代に、知事が強く望み、力を注いで生まれた村ということに由来します。 1960年代のことでした。南のリオ・グランデ・ド・スール州に入って蔬菜(野菜。青もの)を作っていた日系人たちにとって困った問題が浮かび上がってきました。それはリオ・グランデ・ド・スール州都のポルト・アレグレ市の近くに日系人移住者が集まり過ぎたため、蔬菜の生産が増え過ぎ、結果としてせっかくの蔬菜の値段が暴落するようになってしまったのでした。 解決の方法として、人口の分散をしようという計画が出てきました。引っ越し先はどこ?同じ州の中でいくつかの場所が候補になり、受入れ歓迎の場所も出てきました。そうした中、お隣のサンタ・カタリーナ州にも相談が持ち込まれました。サンタ・カタリーナ州は日系人を喜んで迎え入れることを決めました。 … Continue Reading →

Colunas do Sr.Hiroyuki Kondo

    【筆者プロフィール】 近藤 博之(Kondo Hiroyuki) ・1956  早稲田大学政治経済学部卒業 ・1956  ブラジル移住のため渡伯 ・1957  サンパウロで独立自営(健康産業) ・1980  妻の死去により廃業、ラーモス移住地へ入植 ・1985  日本企業勤務のため来日 ・2000  同退職・離日 ・2001  サンパウロ海岸山脈農地の管理に従事 孫の故郷・ラーモス移住地の活性化に尽力、現在に到る             =近藤博之氏の手記「ラーモス移住地便り」= 近藤博之氏は、早稲田大学海外移住研究会のOBです。同研究会初代部長・故西野入徳教授(大隈総長の愛弟子)の薫陶を受け、1956年、卒業と同時にブラジルに渡伯(移住)しました。その後、サンパウロ州の港町、サントス(笠戸丸等移住船到着港、観光都市)でサウナ等健康事業を営んで成功され、顧客には、サッカーのペレー選手等有名人もいて、港に着く日本人移住者等のお世話も引き受けるなど活躍されていました。1980年、不幸にも奥様がご病気で他界されたため心機一転、知人の紹介によりお孫さんたちとともに新天地ラーモス日系移住地に入植、当地で約5年間農業を営んだ体験をお持ちです。ラーモスは、豊かな自然に恵まれ、知的文化水準の高い移住地として知られ、同氏は、同地の日伯文化協会会長尾中弘孝氏とともに、ラーモスの素晴らしさを日本人に訴え、ラーモスの更なる活性化のために日本人の来訪を促したいとして先般(2011年12月)訪日されたいわば”ラーモス大使”です。同氏は、今後、当地に日本文化の殿堂とすべく八角堂(法隆寺夢殿を模して建設されたという)に日本の水墨画等を展示し、また「鎮守の森」作り構想実現のために奔走中です。この手記は、日系のサンパウロ新聞に2007年7月から2008年6月にかけて連載されたものです (2012.2.1 TRABRAS理事長加藤仁紀)   (1) 二十年ぶりに帰ってきたラーモス移住地 何もかもが変わっていた。一番驚いたのは、クリチバーノスから移住地までの土道が舗装道路になり、わずか20分で移住地に着いたこと。「今じゃ食後にアイスクリームが欲しいと思えば、車でちょっと町まで買いにいける」と村民の弁。移住地の初期は、生産物のトマトを搬送するのにトラックで3日もかかり、トマトを全部駄目にしたと言う。雨が降れば移住地入り口のマロンバス川が増水し、橋がなかった頃は艀もとまり、まさに陸の孤島だったのです。現在、移住地の入り口のマロンバス川では、二車線の橋の架け替え工事が行われ、9月末完成を目指して急ピッチで進んでおり、この橋の脇に、日本政府の「草の根基金」援助で観光物産館『八角堂』が建設中で、八角堂の外郭ができあがり、その偉容さがあらわれはじめております。 さて、今日は、久しぶりに参加したラーモス秋季第運動会について記してみたい。 寒さが一段と厳しくなった5月の始めの日曜日、当日の朝は、この地特有の濃霧でしたが、数刻してその霧も晴れ、絶好の運動会日和となる。 会場は日本人会館に隣接する広大な運動場。入り口には紅白と黄と緑(ブラジルの色)の布で巻かれた二本の柱が立ち「大運動会―UNDOKAI-」の横断幕が掲げられてあり、何処から湧いてきたかと思う程たくさんの人々、ブラジル人日系人の老若男女が集まりだす。「私の孫がね『早く運動会始まらないかなあー。私足が速いから一等になって、たくさんのプレゼントもらうのよ』とはしゃいでいるのよ」と自慢そうに言うブラジル人のおばあさんの声が聞こえてくる。 UNDOKAI-と言う単語は、ここではすでにブラジル語になっているようだ。日本文化浸透の現われでしょう。そのような催しがブラジル南部の州の山の中で行われ、地域住民の絆と彼達の健康促進に寄与していることは素晴らしいことです。今年から当地の小・中学生500人も参加し、さらに市との共催となり、市長も来賓として来られ、進んで競技に参加し、運動会を盛り上げてくれ、叉、350キロも離れた州都のフロリアーポリスからも日系コロニアの有志の方々が駆けつけてくれております。 玉入れ、綱引き、パン食い競争、ビン釣り競争など昭和一桁生まれの私にとって懐かしい競技ばかり、参加したブラジル人は大人も子供も喜びはしゃいでおり、また、昼食には「おにぎり」や「のり巻き」「ヤキトリ」といった和食の他に、この地特有の1メートルもある竹串にさした大きな肉のかたまりの焼肉(シュラスコ)などが用意され、白いエプロン姿の日系婦人の姿が秋の陽に美しく照り輝くのが印象的でした。 以前来伯した日本の有名なスポーツ選手が「ブラジル人の体力と柔らかい筋肉を鍛えれば世界で最もすぐれたスポーツ大国になるだろう」と言った言葉が不図私の脳裏をかすめ、この運動会の最後に行われたマラソン競争で優勝したブラジル少年の走り方とその筋肉を見て少年が何時の日か世界の舞台にたてないか等と夢想しながら会場を後にしました。 … Continue Reading →